遊園昔話「向ヶ丘稲荷神社」のお話
センタープラザからマーガレットアベニューをこえた「楽焼き」のとなりにあったのが「向ヶ丘稲荷神社」です。
楽焼きに参加したことがある方は大変覚えていると思います(下記の写真を見れば分かりますね)。
今回の特集は、この「向ヶ丘稲荷神社」のお話です。
神社の由来
開園当初の昭和2年、正門から杉山道(現、向ヶ丘ボール付近)を登った中腹の曲り角に湧水がありました。
園内の居住者は、それを飲料水として使っていました。
(当時、園内の出店者のほとんどは、お店を住居に使っていたとのことです)
初夏のある夜、水をくみにいった某氏は、狐の親子が水を飲んでいるのを見つ
けました。そして、持っていた天秤棒で撲殺して、食べてしまったのです。
そのためか、間もなく某氏は変死してしまいました。
そして、あれは狐の崇りだという噂がひろがりました。
また、夜になると、悲しそうな狐の啼き声が聞こえてくるという評判も立ってしまったのです。
園内居住者は、何とか狐の供養をしなくてはと相談していました。
その時、たまたま近くに住む方が転居するにあたり、邸内にまつってあった稲荷
の社の処置に苦労しているという話を聞いたのです。
園内住居者はこれを勧請(かんじょう・移して祭る)して供養することに相談、決断いたしました。
そして、枡形山戸隠不動尊(現、川崎市多摩区)住職の紹介でこれを譲り受けて、
「た(口へんに乇)木老只真天」の神号をつけてもらい、向ヶ丘稲荷として安置しま
した。昭和8年2月22日のことです。
その後の歴史
以後、22日を「祭祀(さいし・祭典)の日」として、毎月祭事を行いました。
①昭和12年には各茶店が幟(のぼり)2本ずつを奉納して、騒動の張本人の某氏
の供養も併せて行ないました。
②戦時中は毎月祭祀を行うのが困難になりました。そして、初午・正月・5月・9月
と簡略化、それでも祭りは絶えることなく行われました。
③昭和31年には太鼓を奉納。
④昭和34年には遊園園長のお世話により、遊園から幟10本の奉納を受けました。
⑤昭和35年頃から、来園者のいたずらなどで、破損が著しくなりました。
そして、会社側(小田急)の了解を得て、今の場所に移築されました。
(当初は、今の場所よりやや奥に安置されていました)
⑥昭和53年会社側の多大な後援のもとに盛大な初午祭が行われ、多くの参拝者で賑わいました。
⑦閉園まで、毎年2月の上旬頃に遊園地の催事「初午祭」として神事を行い、
来園者に、甘酒・つきたてのお餅等を無料で振舞わられていました。
(向ヶ丘遊園小史より~)
戦前の向ヶ丘稲荷神社の写真
昭和37年の防衛博をひかえ、工事中の向ヶ丘稲荷神社
昭和38年2月の初午祭の様子