当時は現在の正門が裏門で、稲生橋の交差点にあった門が正門と記載されてます。 今まで、なぜ正門よりも稲生橋にあった門の方が豪華な作りをしているのかと ずっと疑問でしたが、これで納得しました。 また、豆汽車の駅も「稲田登戸」-「正門」‐「裏門」と3駅存在していたことが この資料でわかりました。 こちらも戦前の「豆汽車」の乗車券。