豆汽車・豆電車のお話

「小田急・向ヶ丘遊園駅」(昔の名称・稲田登戸駅)から「向ヶ丘遊園正門」の区間を走っていた
送迎役の「豆汽車」と「豆電車」のお話です。

「豆汽車」編
昭和2年6月 デビュー
撤去日 昭和14年3月-昭和15年3月(戦時中)

「豆汽車」は、向ヶ丘遊園地の開園2ヵ月後の昭和2年6月に開通。
「向ヶ丘遊園地」は当初予定されていた場所より遠い位置に
開園したため、駅からの来園者の交通の便をはかるために敷設されました。

◆敷設距離、約1キロ◆単線◆
◆「二ヶ領用水」沿いを7両の客車を牽引◆
◆ガソリンエンジン◆
◆編成定員、子供168人◆


当時のの記録は、戦前でもあるため、あまり資料も残っていません。
上の写真は、当時の「豆汽車」の走行姿で、さよならイベントの「歴史館」にて公開されていた貴重な写真となっています。
下の写真は、「二ヶ領用水にかかる手前の線路」です。

「豆汽車」はその後、戦争という暗い時代をむかえ、撤去は
当方所有のパンフレットの昭和14年3月時点には豆汽車の記載があり
昭和15年4月のパンフレットには記載が無いため
このことから、昭和14年3月-昭和15年3月の間の戦時中に撤去されたと思われます。

当時の豆汽車乗車券

「豆電車(輸送業務)」編

戦時中に撤去された「豆汽車」にかわって、戦後の昭和25年3月25日に復活したのが「豆電車」です。

「汽車」が「電車」と名を変えたように、「ガソリンエンジン動力」から「蓄電池動力」となりました。

線路は、戦前と同じ単線でしたが、輸送力の増強に伴い、区間の中間地点にポイントを設けて「駅」と「遊園正門」から同時に発車しても交換できるように変更されています。

当時の「二ヶ領用水」に沿った、桜木のトンネルをとおる「豆電車」の姿はとても素晴らしいものだったと聞いています。

ピーク時には、線路に沿って歩く来園者も多く、花見シーズンの電車への飛び乗りなど、安全確保のため、係員などは相当苦労されたようです。
昭和40年秋、モノレールへの移行工事により、豆電車は廃止。
戦前からの戦時中の休止期間を含め38年の歴史に終止符を打ちました。

その後、「豆電車」は幸いにも奇跡の転職を為し遂げました・・・

「豆電車(遊戯具業務)」編

「向ヶ丘遊園正門」までの輸送業務を退役した「豆電車」は、2年半後の昭和42年4月に遊器具として
第二の人生を歩み始めました。

写真のとおり、ボート池を一周する遊器具に転用されたのです。
そうです、あのフラワートレインの初代が「豆電車」なのです。

閉園まで走っていた、SL型の「フラワートレイン」に代替わりする昭和57年3月までの15年間、
バリバリの現役として「ボート池」を右周りに走りつづけました。
フラワートレインは、左回りでしたね。
右回りから左回りへ・・・・遊園の時計の針が逆に周り始めたような昭和57年の退役でした。
「豆電車(遊戯具業務)編現役を退いた「豆電車」はいずこへ・・
「豆電車」の消息はどうなったのでしょうか。

閉園の約一年前、「豆電車」から輸送業務を引き継いだ「モノレール」は、既に解体への道を歩みました。

しかしながら「豆電車」の歴史はまだ終わってはいなかったのです。

 

「豆電車(休息)」編

フラワートレインの姿の奥に見える建物、「豆電車」が、現役を退いた後、静かに余生を過ごした場所です。

ボート池を周遊しながら、池沿いにトンネルを抜けて暫く進むと左に大きくカーブになります。
その右に引込み線が倉庫に向けられて延びていました。

これは、一部の関係者しか知らなかった事ですが、昭和57年に退役してから、閉園までの20年間、
処分されることも無く静かに収められていました。

「豆電車(旅立ち)」編

「豆電車」は、閉園後に保存を目的とし、「けいてつ協会」に譲渡され、無事に余生を過ごしているということです。

このプロジェクトに参加・ご協力の皆様には、遊園のファンを代表して御礼申し上げます。

上の写真は、「けいてつ協会」よりご提供いただいた、遊園を旅経つ「豆電車」の姿です。
約20年ぶりの外出となりました。

下の市写真は、川崎の「東芝科学館」に一般公開された時の
「豆電車」の雄姿です。

※現在の豆電車の行方を調べたところ、足尾歴史館に保存されているようです。
調査次第、更新予定です。

「豆電車」
昭和25年3月25日 デビュー
昭和42年4月 ボート池に移動
昭和57年3月 現役を引退、倉庫へ
平成14年3月 遊園閉園、その後「けいてつ協会」へ
平成15年7月22日 一般公開
現在、足尾歴史館にて保管中